昭和五十六年十二月十九日 朝の御理解
御理解第三十五節
「信心は日々の改まりが第一じゃ。毎日、元日の心で暮らし、日が暮れたら大晦日と思い、夜が明けたら元日と思うて、日々うれしゅう暮らせば。家内に不和はない」
日々嬉しう暮らせるという日々を楽しう暮らせるという、そういう生き方をもしあるなら目指させて頂こうという所に私、合楽の信心があると思うです。
おかげを頂かなんならんから合楽というのじゃなくてね。成程、あらたかなおかげが受けられるから合楽というのではなくて、確かに日々楽しうね過ごしていけれる手立てが教えられるという事が
合楽通いのまあいうならば芯になるというかね。
お願いをしますどうぞと、成程それもいいですけれどもね、おかげになれば有難かったり嬉しかったりするんだけど、反対の事であるともう嬉しうなかったり、いわばお参りすらも楽しうお参り出来なくなってくるわけであります。
元日のような心でと、今日は元日だから不平は言うちゃならん不足は言わんぞとまあ慎みあった心の状態でという事は、なかなかもってなかなか難しい。しばらくは正月の気持ちでおるけれどもすぐくずれてしまう。
どうでもひとつ信心が有難いもの楽しいもの、ね。合楽の信心は合楽の教えを行じさせて貰うと確かに楽しうなる嬉しうなる。そして、これにはおかげが確かですといわれるようにおかげが共のうてくるのですからね。
そこでやはり、どういう事かというとね。やはり信心が好きにならなければならんと、又段々分からせて頂いて私共がね、この世にある間に本気で真の信心させてもろうて真の信心の徳も力も受けておかなければならん、というようにその目覚めてくるね、心がいよいよ信心に向いてくる。そこから稽古をしょうという気になってね。
ですから、そのそういう稽古なのですからね、その稽古に取組んだらもうどんな場合でも必ず有難くなってくるです。楽しうなってくるです。ね、そこから私は生まれてくる日々嬉しう楽しうというのでなからなければ、今日は元日だからが、不平不足は言わんといったようなのは長続きするはずがない。
元日と思うて今日はと、なら毎日毎日元日と思うて、又は大晦日と思うてという事だけではね、私は本気で稽古が好きになる信心が好きになる、しかも勿論好きとか嫌いじゃない。それは人間の重大視。それこそ、この世はあの世の為にあるとさえ言われるといったようなまあ大変な本当な事が分かってまいりますと稽古せずにはおられない。本当に自分の心の中に有難い心を開かずにはおられない、ね。
それを様々な問題とか事柄とか毎日色々な事があるのですけれども、それを受けていく手立てというか楽しうまあ楽しう暮らせばとこうね。ですから、もう勿論家庭に不和はないと仰るように信心のまあ信心の願目とさえ言われる、家庭に不和なきが元とこう仰る。信心は家庭に不和なきが元である。いうなら、家庭中が喜びあえ、いうならば拝み合っていけれる家庭を作らして貰う事の為に、まず我心の中に喜び楽しませて貰えれる我心が拝める心の状態を開いていく稽古なんです。そういう稽古なんです。信心とは、ね。
ですから、稽古をするというむつかしい、むつかしい事になれば難しくなるほど稽古事というものは楽しくなるんじゃないでしょうか。どうでしょうか。始めからぱかっと難しいという、例えばあの楽器なら楽器の稽古でもそうです。始めから難しいものを例えば、三味線でいうならばまず誰だってはじめは竹に雀です、ね。それから段々いうならば難しい難曲といわれるような曲も弾きこなせるように稽古をする頃にはもう三味線をやめろと言うてもやめられないね。楽しうなってくる嬉しうなってくる、ね。自分が自分の弾いておるその楽器ですね、例えば三味線なら三味線でも自分で聞き取れれるよう音色が出るようになる。もうこれはね、心と同じです。
稽古していきよりますとね、自分の心の中からこういう素晴らしい有難い心が出てくるという事がね。もうそれこそ有難うなり、それがやはり楽しくなってくるのです、ね。音曲でもやっぱそうですよ。もう本当に形の上においては音だけれどもその音色というものはもう限りがないのです。それこそ自分で自分が弾いておるその音色に聞き取れるようなね、そこにはもうそれこそ不思議な不思議ないわゆるネオンを奏でる、又はネオンを自分の心に聞くことが出けるようになる稽古です。
稽古をするという気にならなければね、私は只今日も一度元日の心で過ごそう、今日も一日が済んだら大晦日と思うてというふうにその内容というものは、ふんならどういうような心の状態になったら元日の心になれるかと大晦日の心になれるかとね、それを合楽理念に求める。合楽理念によるいうならば事柄の一つ一つを稽古の対象として貰う、そりや難しい、二日も三日も解けんような問題にぶつかるような事もあってもです、ね。結局はこういう中にどうしてこういう喜びがわいてくるのであろうかという喜びに触れることが出来るのです。こんな苦しい事の中にこういう喜びね。こんなもう意気消沈、普通でいうならもう本当にこの世がいやになるような状態かにあってもです、心はむしろ反対に意気揚揚とした心が生まれてくる。不思議で不思議でたまらん稽古です、ね。
だから、私はこのいうなら元日の心とか大晦日の心でとかとそういう心で確かに日々嬉しう楽しうでける、ね。そこになら家庭に不和のないが元といわれる信心の元がでける。その元を受けものとして又はおかげはいやというても付いてくるというおかげ。私、それを日々体験させて頂いております、ね。とてもやめよというてやめられるものじゃないね。楽しいね、楽しう嬉しう過ごさせて頂ける、ね。ふんなら今日はいっちょどうでも元日の心で今日一日過ごそうというふうにそれにつとめるのでなくてね、そのそういう心の状態にいつもなっておれれる稽古をさせて頂くという事ね。
そのうちに段々いうならば御祈念をする。しよりますと始めの間はしたりしなかったりいわば毎日御祈念をする事が億劫なような時もあるけれども、そこを辛抱して御祈念の稽古をさして貰いよると御祈念そのものが有難いものになってくる。ハハァーこういう時が神様と交流するんだなというような心の状態が御祈念中に開けてくるようになる。信心が楽しうなる。お神様のひとつも拝まにゃおられん、お祭りもせにゃおられんね。お祭りするならばもう本当に金をかけて立派なお神様を拝みたい。段々好きになってくるとそうせずにおれんのです、ね。
そして、いわゆる信心の稽古を合楽理念に求める生き方を身に付けていくね。そりゃ話だからそげん簡単に言われるけれども、実際に難儀な問題に取組んでそんな楽しいとか嬉しいとかという心が開けるはずがないともう決めてしまっとる。そうじゃない、これは私がもうそれこそ色々な角度から体験してきておる事です、ね。それがそしていよいよね、はあ、御神願の現れいうなら神愛の現れであったというように分かってくるようになると、それこそあれもおかげであったこれもおかげであったというような心の状態が開けてくるんです。
私、昨日お茶を頂く時にこう私の茶碗頂いとる大変上等な茶碗を頂いておりましたが、中がこうやって欠げてるんですよね。どうした事か、私はもう不思議に欠げた茶碗、欠げ出された時というのは皆は、はあおかげという人があるけれども私は嫌いです。で、あらどうしてこげんとが欠げたじゃろうかち、昨日でした。そしたら夕べお月次祭が終わりましてからですもん、安藤さんが、親先生いい物が手に入ったからというて見事なあの夫婦湯呑の陶器の茶碗でしたけれども、私が頂きよったのも陶器のそれでしたからあのお使い下さいというて、そりゃまあ私好みの素晴らしいお湯呑み夫婦湯呑でした。
いやあ安藤さん今日ね、お湯呑みが欠げてどうして欠げたじゃろか、私がどういうもんかあのお湯呑みの欠げたのだけは好かんのですけれども、神様は聞きござったやろとまあ言うて頂いてもうさっそく明日から使わして頂こうというて繁雄さんにちゃんとお掃除してもらいましたんですけれども、どうでしょう皆さんね、嬉しう楽しう信心させてもらうともう本当におかげが確かです。一分一厘の間違いないくらいに確かです。だからね、その楽しう嬉しう出来る信心の稽古をね、それが難しい事であれば難しい事であるほどに、いうならば有難う楽しうなってくるという信心の稽古に本気で取組む。
昨日お説教の中にも聞いてもらいましたが、福岡の関屋さんのお話をね何十年間椛目時代からですから信心はしとられます。で又、色々とおかげも頂いてこられましたけれども、本当に信心の楽しさというのは福岡にあの女の会が出けてからこちらです。女の会に通うようになって、女の会の方達が実際に実験実証して確かに親先生が言われるようにもう変幻自在に自分の心を有難い方へ有難い方へと使うていく稽古ですよと、ね。それにはこの女の会の方達はもう皆そうですけれどももう毎日日参が出けない、必ずお参りをさせて頂くと同様の日初穂をなさいますね。これはあの女の会会長である伊藤さんがそうだから、まあそれに皆が見習われるわけでしょう。確かにおかげは確かです、ね。
そして、いわゆる今まで何十年間お話も頂いてきた。信心もしてきたけれどももう毎日が楽しうてこたえんと、外へ出てもどういう車と一番にあうじゃろかと思うて出られそすとそこには自分が今頂かなんならんナンバーがこうやって前を走っとる。もう楽しい事楽しい事。テレビを見よっても本当に合楽で御理解頂きよるような思いで聞く事がでける。ね、いつも側に親先生がおって頂く実感です。旅行中なんかでも車窓から見る、そこに親先生がおられるはずがないのに親先生のお顔がこのガラスに映っておる。もうこんなに不思議でこんなに有難い事はない。神様にもう御守護に御守護を受けておる、ね。それを本気で神様本気で心を信心で頂こうと稽古さして頂こうという事になったら楽しうなってきた。楽しうなってきたら、今まで押しても引いてもどうにも出来なかった子供たちのそれもまあ言うならば重傷的な問題がね、博打が好きな子供がおる、お酒が好きでたまらんとがおる。それがお酒をやめるといい、博打をやめるという。
いわゆるどういう事になるか、ね。家庭に不和はないという事になってきたわけなんです、ね。そしていうならば、おかげは本当に勿体ないように頂けるというまあ昨日、一昨日のこりやまあ電話で御座いましたけれどもね、信心が言うなら教えに取り組む事が言うなら楽しうなる。言うなら稽古をする事が楽しう喜ばしいものになってくる。一つ一つ難しいものがあがっていく喜び。そりや難しい難しいけれども又それが自分のものになっていくという事の楽しいね。私は、今日はここの日々嬉しう暮らせば家庭に不和はないと言われる所を今日は聞いて頂いているんです、ね。
だから、いわゆる元日の心でとか大晦日の心でとかとまあ、さあそれに今日はいっちょ元日の心でというはなかなか続かないけれどもね、今言うように稽古させて頂く、しかもその稽古が好きな事を稽古するようにいわば難しい、まあ楽器で言うなら難曲といわれるようなのが弾きこなせれるように奏でられるようになると、今までこんな音色がこの楽器から出るやろかと思われるような神秘的な音色が出るようになるです。自分の心もそうです、ね。我心の中からもう神秘的なまでなね。人間の心の中にこういう心。私のような者の心の中にもこういう心があったんだろうかと思うように我ながら我心を奉れと仰るようなその心がね。開けてくる事の楽しみとか喜びね。その問題なら問題を通して稽古さして頂くという事になりませんとね。
いわゆる今日の御理解のように、嬉しう楽しう過ごせばと言われる、いわゆる合楽理念はね、もう楽しうでける嬉しうでける。しかもおかげが確かです。神様が見ておって下さっただろうか、聞いておって下さっただろうかと思うようにそれに裏付けをして下さるように、自分の心に裏付けをして下さるようにそのおかげも共のうてくる。そういう喜びの世界、言うならばおかげの世界を私はいわゆる合楽世界を目指しての信心というふうに思うです、ね。
だから、やっぱりそこん所をね、今、女の会の方達が本当に心を自由自在に有難い方へ使うまあぎこちない所もあろうけれどもそれを本気で本気で稽古をするという気になったら楽しうなってきた、ね。おかげでね、言うならばお日初穂も楽しうでける。本当にまあ一週間に一辺なら一週間に一辺お参りをして見えられる。本当に楽しそうですね。女の会の方達がここにお参りに来ると信心はね、楽しう頂く私は手立てがね合楽理念だと思うです。
おかげを頂かなければならんから合楽に参っとるとの何十年も前からね。本気で心一つで全てを創るといわれる心一つに取り組ませてもらうとそこにもうリズムが出てくる。調子が出てくる、ね。いわゆる、生活のリズムというそれがもう楽しい。神様をいつも身近におって囁きかけて下さるような喜ばしさがある。その喜ばしさにはどうにも今まで叶わなかったものがかのうてくるというおかげにもつながる事です。
これをいよいよ進めていく。これをいよいよ自分の血に肉にしていくという信心が段々いよいよ好きになる。いよいよ本気で稽古をしょう、ね。只、お参りしよると稽古しよるというようなもう何十年続いたっちゃ同じ事ですばい。はい、そりやお参りしよるけんおかげを頂きもしようけれどもね、けど本当の神様が喜んで下さる、神様が下さろうと思うておられるようなおかげに触れる事はできんと思うですね。どうぞ。